原発地に住んでいる私が東日本大震災を体験して伝えたい報道の裏側

この記事では、東日本大震災当時の状況、避難所での悲惨さ・防犯準備の大切さ、そしていざ災害が発生したときの対処法です。報道では報じられなかった当時の状況を、ありありと体験談として綴りますので、心に届いていただけたらと思います。






初めまして。私はKIKIといいます。出身は福島県の原発地域だった町です。昔当時のサッカー日本代表が合宿にきた町です。周りは本当に何もなく田んぼばかりでスーパーなどではなく、ちょっとした買い物に行きたいときは片道50分かけて出かけなければ何もない小さな町でした。

現在31歳2児のママで、震災の時は24歳、大手ハンバーガー店の社員をしていました。被災地で生活していた期間は小学校6年生から高校3年生の間の6年間と短大を卒業してからの4年間弱です。

現在は結婚し、隣の県に引っ越してきました。市役所や医療関係の方たち以外は私が避難者ということを知りません。話すこともできません。なぜか?ばれてしまったことによって子供たちが嫌な思いをしてしまう

かもしれないからです。7年たった今でも偏見などは残っています。これから、震災当時の状況から震災後までの体験談をお伝えします。

1)震災前の私の家族

【1】それぞれのライフスタイル

私は義父、母、妹2人、弟3人の8人家族です。 当時は両親、妹、弟1人、そして私の飼い犬で暮らしていました。 働いていたのは義父、私、妹で私だけがシフト制だったため、変則的な出勤時間でした。全員片道1時間以上はかかっていました。

【2】非常時のための準備

普段生活していくうえで人数が多かったため食料のストックは普段から結構ありました。 水分は特に常備はなく家族全員あまり気にしていなかったです。

東日本大震災

2)東日本大震災発生時

【1】震災当日の行動

私は午後3時から仕事だったため、発生時間にはお店のバックヤードで、アルバイトの子たちと話して時間をつぶしていました。私以外の家族は働いていたのと、家でゆっくりしていた人たちに分かれます。

【2】震災時の私たちの体験談

(1)緊急地震速報

生まれて初めて緊急地震速報の音を聞き、皆で『今の何?!初めて聞いた!』と テンションが少しあがった状態で会話をしていました。そのとき『あれ?少し揺れたかな』という判断しずらいふわふわという感じになっていたところ・・・ドドド、グワングワンという重い地響きと大きな揺れを感じました。

とても立っていることができず、私は少しパニックになってしまいましたが、アルバイトの子たちを守らなきゃと思いテーブルの下にくぐるように指示をしました。

揺れの時間はとてつもなく長く、後で調べたところ約160秒だったようです。 揺れがおさまり、ドアを開けようとしましたが地震の影響で歪んでしまい、開かなくなってしまい、少しの間閉じ込められてしまいました。その後私たちが出てこないことに気づいた他の社員が、助けに来てくれて事なきを得ました。

スマホの電波は地震直後には悪くなっていました。裏から出るまでの間にお客様の安全確認、次にアルバイトたちの安全確認も終了していて、店長からの指示は『食料と水を買えるだけ買って来い。店が閉まってしまったらなにも買えなくなってしまう』という事でした。そのため仕事先と同じ敷地にあるドラックストアでパン、ジュース、2リットルの水を段ボールで購入。あと犬の餌なども買いました。

同じように考える人でドラックストアは混んでしまい、店員さんは一生懸命対応していましたが避難をするということで店は閉まりました。閉めるまでの時間は約20分ぐらいだったでしょう。その20分の間に液状化現象が起こり、雪がふり、雹がふり、突風が吹いて、からっと晴れ間が出るという異常気象になり、『もう終わりだ』とつぶやき泣き出してしまった人もいました。

14時46分に地震が発生してから30分ほど過ぎたあたりに少し落ち着き、アルバイトの女の子が『家族が心配だ、今日は海近くの祖母の家にいっているはず』と 言い出したため、車で様子を見に行くことにしました (勤務先は海から離れてはいたものの、海辺の地域にありました)。

14時46分の地震の後、少し感覚をあけ2回目の地震が起きてからは、小さい地震が頻繁に起きていました。周辺の方々は落ち着きを取り戻し、落下した瓦・外壁・ガラスなどを片付け始めていました。

向かった地域の住民は、老人が多く建物の築年数も経ったおり、正直車で走りたくないほど残骸が道路に散乱していました。その風景を見ながらアルバイトの女の子に『大丈夫、皆と同じように片づけしているよ』と 声をかけてあげるしかできませんでした。

心の中では不安な気持ちしかなくてそれが伝わってしまったのか、女の子はから返事でした。下手なことはいうものではありませんでした。 海辺付近に差し掛かった頃にサイレンが鳴り響きました。『大津波警報が発令されました。高台に避難してください。』と。

そのアナウンスを聞いたときに私たちは海辺の横を走っる時でした。すでに道路に海水が浸水始めている頃だったので、急いで U ターンして窓を開けて『津波が来た、避難しろ!』と声をかけていきました。

老人の方々は耳が遠すぎてアナウンスが聞こえていなかったようで、私たちが通り過ぎたあとも避難するそぶりはなくもどかしい気持ちでその場を去りました。

数日後、私たちが避難を呼びかけた地域は8割の住民が亡くなられました。あのとき車から降りて避難を呼びかけていれば、また違ったのか・・。しかし私たちも巻き込まれてしまう、私は社員としてアルバイトを守らなきゃいけなかった答えはいまだに見つけられていません。

(2)現状把握ができない

地震発生から携帯の電波が悪く現状把握するすべはありませんでした。 家族と連絡がつかないまま勤務先の片づけをして夜に帰宅をしました。 停電しており、ろうそくで補っている状態で母は私を見るなりひきつった笑顔を見せながら『無事だったんだね。』といった瞬間に腰を抜かしました。

相当な恐怖とともにストレスがかかっていたんだと思います。 私は買ってきた食べ物を母に渡し、話を聞きました。地震が発生して食器棚が倒れてしまいそうだったのでずっと支えていた、2回目の地震の後少し落ちついたので片づけをしようかと思いながらふいに外を見たときに違和感を感じた、でも何が変なのかがわからず、しばらく見ていた(私の実家から海に向かって田んぼが広がり、海との中間地点に1本杉があり、海辺の近くにお家が2軒建っていました)。

すでに津波がきており海辺の家がながされて、田んぼ一面が水につかっていたことの しばらくして気づいたといっていました。

(3)地震発生の初日の夜

地震発生日の夜はリビングで全員一緒に寝るようにしていましたが、体育座りで休むしかなく、また余震が一晩続いたためほとんど寝ることができず 朝方にやっと眠りにつけた感じです。外で何かが流れている音が聞こえて 私は目を覚ましました。玄関を開けて耳をすませてみると耳を疑うものが聞こえました。

『午後3時28分原発が水素爆発を起こしました。住民の方はいわき市に避難を開始してください。避難先小学校は・・・』 急いで家族を起こし母に爆発したことを伝え避難準備を開始しましたが状況把握に頭が追い付いていなかったため荷物をなかなかまとめられずにいました。

当時のことを話していた時に母が非常時の荷物は特にまとめていなかった、まとめていたらすぐ避難できたのに本当に申し訳なかったといっていました。 もし私が母の立場であっても特に何も準備はしていなかったと思います。

なぜか、それは震災のような大きな災害が自分の身に降りかかるなど想像していませんでしたから。話を戻して、各々荷物をまとめて私の車と妹の車、親の車で避難を開始しました。

目的地はいわき市に借りていた私のアパートです。仕事の都合上アパートと実家両方で生活をしていました。通常であれば一時間ほどでつく道なりでしたが、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町の住民が一斉避難をしたため私たちが出たころには大渋滞でいわきのアパートにつくまでに約5時間かかりました。

いわき市に入るまで電波が入らなかったため、会社に連絡することのできずにいて連絡が取れなかったことに対し怒られました。 同じ被災者で原発が爆発して大変な地域にいるのをしっているはずなのに、私以外の社員が普通に連絡も取れ店にも出てきたことにより理解をしてもらえず言葉に表すことができないほど悲しい気持ちでした。

あとで知ったことですが いわきの各避難所には原発地域のほかにいわきの壊滅的被害を受けた地域の住民の方も避難をされていたようで、ある体育館では3000人近い避難民が押し寄せ、体育館では足りず 教室なども利用してもおさまらなかったそうです。

そこに避難をした方には食事が十分にいきわ たらずに、一日で沢庵3切れとお水という日もあったと聞きました。 私たちはアパートに避難をしましたが、何も情報が入らないため近所の避難所にお邪魔させていただきました。

犬がいたため当初は私のみアパートにいて家族がご飯を持ってきてくれていましたが、避難所にいた人数が少なかったこともあり、犬を連れてきて構わないよとおっしゃっていただけたのでお言葉に甘えることにしました。

私たちがいた避難所は食料も余裕があり、妊婦・子供・授乳期のママを優先に食べさせることも可能でした。

避難所には生後1か月の赤ちゃんがいました。赤ちゃんがお風呂に入れないのは衛生的にもまずいとのことで理科室で実験に使うアルコールランプを何個も使い飲料水を沸かし体の拭き上げをしていました。

使えるものはつかって何とか乗り越えていました。 コンセントもあり充電はできましたが数が限られていたのと、周りの目が気になってしまい あまり頻繁には使えませんでした。あとなくてこまったのが生理用品です。

私は生理はきていませんでしたが同じ避難民の方の中に生理中の方がいて、気持ち的には嫌だったと思いますがペット用のおむつをはさみで切ってその日は乗り切っていました。

東日本大震災

4)震災中に心が救われたこと

それは友人が支援物資をわざわざ持ってきてくれたことでした。

同じ福島県でも数日たったあたりには避難生活をしているのは主に浜通り(海側)で 中通り(県庁所在地)、会津地方はある程度の生活リズムを取り戻している状態でした。

そのため足りない物資を私の家族分だけではなく、避難の方たちの分まで購入し持ってきてくれたのです。本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。同じいわき市でも ライフラインが復旧しているエリアとそうではないエリアがあったので 大量のウエットティッシュはありがたかったです。

5)震災に直面して必要だと思ったもの

【1】普段の準備

・「近辺の避難場所以外の避難場所の確認(人数の関係で入れない場合もあるため)

・最低1週間の食料と飲料水を常にストックしておくこと

・電話などの連絡手段が使えないときの家族との待ち合わせ場所を決めておくこと

これが普段できる最低限の準備だと思います。

【2】実際に役に立ったグッズやアイテム

(1)サランラップ・アルミホイル

水道が使えないため洗い物を出すわけにいきませんでした。 そのためアルミの上にラップをしいて食料を置きました。

(2)ビニール袋・ガムテープ・新聞紙

アパートにいたときに水が流せなかったことがあり、便器の中に袋をガムテープでとめて袋の中に新聞紙を入れて大きいほうをしていました。新聞紙はその他にも寒さを少しでも和らげるように床と段ボールの間にしいていました。

(3)ガソリン携行缶(けいこうかん)

千葉のガソリン工場が爆発した影響でしばらくの間ガソリンスタンドがほとんど開いていない時期がありました。そのため普段車を使う方は絶対持っていたほうがいいと心から思います。

(4)小分けにされた飴やお菓子

食料が足りなくて頭が回らなく、テレビも何もないのでストレスが本当にひどくてピリピリしていることが多かったです。その時に小さい子供にもらったリンゴの飴が すごくあまくておいしかったことがありました。 自分が食べなくても周りの方にあげられるしコミュニケーションをとるきっかけになります。なので一袋でもあるといいように思います。

(5)電池式の充電器

スマホは必須です。情報を得るために一番使用しました。充電器用の電池も合わせて準備してください。

(6)手をふくウエットティッシュ

衛生的な問題を少しでも改善することができます。

(7)生理用品・下着を多めに

支援物資に生理用品はありませんでした。下着はできるならカップ付きインナーの方がいいです。違う避難所で下着泥棒が発生しました。

6)震災を経験していま考えること

まず冷静になることです。判断力が必要になる事柄が多々ありました。そして情報を何としても得ること、得たすべての情報を信用はせず本当に必要な情報を見極めること、あと周囲とのコミュニケーションをとることが大事です。

私にとって東日本大震災は一生忘れられない経験となりました。

阪神・淡路大震災などもニュースで見てはいましたが心のどこかで客観的に見ていたので いざ自分が被災者となったときにこんなにきつく悲しい思いになるとは考えもしなかったです。 しかし、窮地にたたされたときこそ、人は強くなることも実感しました。

辛くても前を向かなければいけない、前を向くためにはどうしたらいいのかを それぞれが考え実行し、助け合いました。人は一人では生きていけないと本当に思いました。 その反面、人が怖いと思うこともあります。それは原発地域にいたということが知られてしまうと、ばい菌をみるような目で見られてしまうことです。

今は他県に引っ越してきて暮らしています。震災後に二人の子供が生まれましたが、上の息子を産んだ時に、震災の話をしてしまい「放射能が怖いから近くによらないでほしい」といわれたことを今でも覚えています。 所有している車のプレートをいわきナンバーのままにしていましたが、速攻変更しました。 私が話さなければばれてしまうことはないはずですが、不安は取れずにいます。






この記事のチェックポイント

震災を経験して失うものも多かったけれど、学べたことも多かったです。起きてしまった後は何とか乗り越えていくしかありません。乗り越えるための材料として必要な情報、知識、食料や日 用品は普段から常備しておくことをお勧めします。

あとは子供がいる方は子供用品も忘れずスト ックするようにしてください。大人は何とかなります。子供は自己主張がうまくはできません。 余計なストレスを与えないようにフォローをしてあげてください。 心の傷が深くならないように震災の時に守るものは子供の笑顔だと私は思います。

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